NEWS
2024年11月4日の『Glass House』上映終了後に行われたトークプログラム〈「方法」からアニメーションの文法を再考する〉では、本映画祭委員である田中大裕氏を聞き手に、アニメーション作家の山村 浩二 氏とトークを行いました。
以下はそのトークの様子を書き起こしたものです。
田中:まずは、本作を観た率直な感想をお聞かせください。
山村: トークをするということで、事前にテレビモニターで一度プレビューさせていただきましたが、皆さんと一緒に大画面で観てみて、一人でプレビューしたときよりもさらに面白く感じました。睡魔に襲われた方もいらっしゃるかもしれませんが、これは意図的だと思います。催眠的な音楽と映像もあり、白黒ながらもサイケデリックで、20世紀のさまざまな芸術の引用が端々に見えて、まるで20世紀から未来を見たようなレトロフューチャーな印象を受けました。
各章にタイトルがついていますが、全体としては「ガラスのバベルの塔」というのが一つの大きなモチーフになっていて、そのバベルの塔が最後、崩壊するという形で終わっています。バベルの塔は人間のある種の英知のおごりで、天にも届く塔を作ろうとして神の怒りを買い、壊されるという旧約聖書の神話ですが、バベルそのものを我々の現代の英知に置き換えたような設定の映画かなというふうに捉えました。
田中:本作は、一般的には非物語的な作品と見なされうるように思われます。しかしながら、山村さんは本作に物語性を見出しているようですね。本作の物語について、山村さんなりの解釈をお聞かせください。
山村:初見は非常に抽象度が高い作品だと思いましたが、2度目の鑑賞では、章ごとのタイトルが物語性を持って構築されていることに気付きました。セリフはなく、登場する人物や鳥などの具象的な事物もやや半抽象的に表現されていますが、作品の中から読み取れる様々な引用やヒントを繋げていくことで、ちゃんと物語になることがわかりました。
僕が読み取った大まかなストーリーは、ガラスのバベルの塔に閉じ込められ、人間性を失っていった人類が塔によってハイパーコネクテッド、ネットなどを介しての複雑な繋がりを持つものの、最終的にそれがバラバラにされるというものでした。バベルの塔の伝説も同様に、塔の崩壊によって言語が世界中に散らばり、私たちのコミュニケーションが困難になったという神話です。要するに、ディスコミュニケーションが大きなストーリーの流れになっていると感じます。
ボリス・ラべの類いまれなグラフィックのセンスは言うまでもありませんが、本作はもともと、アルゼンチンの現代作曲家ルーカス・ファギンが作曲した音楽に基づいており、演奏会のバックで流す映像として作られたものだそうです。実際のライブコンサート版を観た方が楽しめる可能性は高いと思いますが、この長編版のほかに、コンパクトにまとめた短編版もあると聞いています。
ストーリーに関しては、各楽曲をルーカス・ファギンが作り、9つある章のタイトルも恐らく音楽のタイトルに由来しているのではないかと想像します。制作の成り立ちから考えると、ボリス・ラべが音楽のコンセプトに沿ったビジュアルイメージを作り上げていったのではないかと思います。
ボリス・ラべのWebサイトには、ルーカス・ファギンの音楽のインスピレーションとして、リゲティの室内楽団、ピンク・フロイドのアルバム『The Dark Side of The Moon』の収録曲「On the Run」、ヴィクトル・ヴァザルリの睡眠絵画が挙げられていて、この三つが全体のビジュアルにも大きな影響を与えていると考えられます。
田中:我々が山村さんにトークを依頼をした際、返ってきた言葉が「紹介文を読むよりもわかりやすい作品だった」というものでした。思うに本作を難解にしているのは、作品それ自体の構造というよりも、「ナラティブ/ノンナラティブ」という二項対立を前提に作品を鑑賞してしまう先入観が理由かもしれません。
山村:オタワ国際アニメーション映画祭でも「ナラティブ」と「ノンナラティブ」の2つにカテゴリー分けしていますが、これは物語が読み取りやすいものをナラティブ、実験的な作品をノンナラティブとして分けているだけで、僕は多くのノンナラティブ作品にも物語性があると思います。マックス・ハトラーの光学録音の発想に基づいた作品のように、20世紀の絶対映画の流れを汲んだ、もともと抽象的な音楽性を映画に取り入れたような作品を除けば、純粋なノンナラティブ作品は少ないのではないかと思います。
田中:そもそも長編アニメーションは劇映画、すなわちリニアな物語を前提とするものという先入観は、作り手/観客を問わず、未だ根強いように思われます。しかし、必ずしもリニアな物語は長編アニメーションの必要条件ではない。それは、山村さんの長編アニメーション『幾多の北』を観ても明らかです。
山村: 長年培われてきた映画の構造は、3部構成になっていたり、ターニングポイントがあったりと大体似たようなもので、アニメーション映画もそれに倣っているものが多いです。しかし、僕は長編アニメーションにおいて、構造の部分でこれまでのナラティブなパターンから抜け出す可能性があると考えています。
『Glass House』は9つの章に分かれていて、音楽でいう組曲のような形です。各章にタイトルがつけられ、それぞれが独立しているものと関連し合い、観客がその9つの章を繋ぎ合わせることで、1つの物語が見えてくるという構造です。一般的な映画の場合は、約15分の単位で1つの章がまとまり、それが3部構成で6パターンくらいの章が重なると長編映画になることがほとんどです。本作は40分なので長編と呼べるかどうかはわかりませんが、組曲的な9つの章から成り立つという点でその構造は非常に面白いと感じます。例えば、2フレーム単位で1つの絵があり、サブリミナルが永遠に続く2時間の映画なども面白いだろうと思います。
実は現在、1分の物語を90本繋げて90分の映画を作るという長編シナリオに取り組んでいます。この映画では、90本のショートフィルムは一見全く脈絡がないように感じられますが、それらを繋げることで何かが見えるかもしれない。このような構造における実験を試みたいと思っています。
田中:本作はAI生成イメージとハンドドローイングのハイブリッド作品です。その点も評価が分かれるポイントかと思います。山村さんは「ひろしまアニメーションシーズン(HAS)」のアーティスティックディレクターとして上映作品の選考も行なっていますが、そこでは生成AIを導入した作品も選ばれていましたね。生成AIに対する山村さんの考えを教えてください。
山村:この作品は恐らく、CGIが使われていたり、マイブリッジのソースが見える写真があったり、何かの映画をベースにしてAIで加工したショットも使われていたり、様々な技法をハイブリッドした作品だと思います。AIは異なる要素を混ぜて新たなイメージや動きを作り出すことに非常に長けており、自分自身の素材をそこに加えることで、オリジナリティを生み出すための道具になるのではないかと感じています。
HASの選考でも、明らかにAIを使っている作品を2本選びました。AIが使われている作品は現代のアニメーションにおける通過点として重要だと思い選考に入れましたが、審査員の方々はあまり評価していないように感じました。「こんなの2分で作れるよね」といった反応があり、手作業を尊重しすぎる傾向があるのを感じました。
ボリス・ラべの『Rhizome』という作品が文化庁メディア芸術祭に応募された際にも、私は審査員を務めていたのですが、その時の審査会では誰一人としてこの作品に触れなかったんです。恐らく、コンピュータで簡単に作られたものだろうという印象を持っていたのでしょう。しかし、全部手書きの素材で制作されていることを僕が説明すると評価が一変し、その作品が大賞を受賞することになりました。今後生成AIについて考えていくにあたっても、アニメーション業界にある「手作りがすごい」という価値観は払拭したいと個人的には思っています。
田中:どれだけ手を動かしたかだけでアニメーションを評価すべきでないとしたら、では作品を評価するにあたって、いったい何が問われるべきだと思われますか?
山村: これは本当に難しい問題ですが、アーティストがどのような視点で、どのような試みをしようとしているのか、そしてそこに新しい発見がある作品が面白いと思います。特に映画祭という場では、既存の技術を使ったウェルメイドな作品を高く評価するよりも、私はもう少し外れた次の可能性を感じさせる作品を見つけたいし、評価したい。自分の価値観では追いつけないような作品に面白さを感じます。
田中:本作における生成AIの使われ方を、どうご覧になりましたか?
山村:本作で一番重要なモチーフになっているガラスの質感、フィクションの中での光の屈折を表現するためにAIが活用されています。また、この映画自体が引用の嵐であり、素材自体も引用が多いため、それらをスムーズにつなげる道具としてAIは最適だったと思います。ボリス・ラべは、アニメーション的な考え方を持っています。アニメーションが中割りや異なるイメージを繋ぐ力を持つのと同様に、AIもメタモルフォーゼとして異なるイメージを滑らかに繋げていくことが得意です。世の中にあるAI映像もモーフィング、つまり形が変化していくものが多く、それはアニメーションの黎明期に似ていると感じています。
田中:生成AIを含め、アニメーションにおける手法というのは「個別言語」に近いように感じます。それぞれの手法には固有の文法(syntax)があり、その範囲内でアーティストは独自の文体を練り上げていく。そういうふうにアニメーションという芸術を図式化できるかもしれないと思う時があります。山村さんはどう思いますか?
山村: その質問に100%同意できない部分もありつつ、逆に田中さんの意図をお聞きしたいところです。syntaxという部分で言うと、アニメーションは絵を動かすために非常に多くの方法が試されてきました。アニメーション技法は、動きをビジュアル上で作るための創意工夫の中から生まれてきたものであり、僕にとってはそれぞれが一種の「方言」のようなものに感じられます。例えば、切り紙っぽい方言があったり、AIっぽい方言があったりというように。
田中:それは、山村さんのアニメーションへの向き合い方が異質だからな気もします。おそらくボリス・ラべもそうですね。どういうことかというと、山村さんもボリス・ラべも様々な手法に取り組まれていますが、一般的にアニメーションのアーティストというのは、ストップモーションやハンドドローイング、コラージュなど、それぞれにシグネチャーな手法を有しているように思います。したがって手法は単なる「方言」のレベルにとどまらず、むしろ、アーティストにとって決定的な枠組みなのではないかと。
山村: 確かに、僕もボリス・ラべも同じような考えを持っていると思いますが、作品ごとに目指すものがあって、それに適した手法や物語構造をゼロから考えがちなタイプなので、ピンとこないのかもしれませんね。アニメーションの場合は非常に職人的な要素が強く、切り紙なら切り紙を一生追求しなければ極めることはできませんし、ハンドドローイングも同様に一生追求していかないと一定のレベルには到達しないという考え方があります。そうなると、一人で多くの技法を開発していくのは難しく、さらに現代ではAIが登場したことで、プログラミングのスキルがなければオリジナルの作品にはたどり着けない。工学的な発想を持たなければ、現代におけるオリジナルな文体を作れない時代に差し掛かっているかなと思います。
田中:少しズレるかもしれませんが、ソフトウェアやツールも表現をある種、言語のように規定しているように感じる時があります。
山村:その点にはとても共感します。選考で何千本ものフィルムを見ていると、あるソフトウェアが流通すると、そのソフトウェアの癖に合わせた作品が山ほど作られるようになり、それを抜ける作品が少ない。観る側としては、「もう少し工夫できないかな」とげんなりしてしまうんですよね。もちろん良い面もあって、例えばDragonframeの普及で、以前は職人にしかできなかった立体作品が、かなり多くの人がスムーズに制作できるようになってストップモーションが活性化し、手描きに必要だった難しいブラシのテクニックがアプリケーションによって補強・補助されるようになりました。ただ、作品のテイストがどれも似通ってしまう部分があり、違う使い方ができないものかともどかしい感じがします。
田中:例えば、絵画における平面性や彫刻における量感を追求する純粋化のベクトルがありますよね? 同じように手法やソフトウェア、ツールの限界を追求することが、アニメーション芸術の純粋化と考えることができるかもしれません。
山村:アニメーション自体が持つ問題だと思うんですが、アートフォームとしてのアニメーションの考え方もあれば、映画の一ジャンルとして、技法としてのアニメーションという考え方もあります。当然多くのアニメーションはエンターテイメントや娯楽、実用のために作られることが多いですよね。アートフォームとしてアニメーションの純粋さを追求するようなアーティストは限られており、実際、多くのアニメーションは産業、または工芸としての追求の方向に傾いてしまいます。
田中さんがおっしゃっている、純粋な芸術性としてのアニメーションの話は理解できますし、僕自身もアニメーションの本質や、他のメディアにはないアニメーションの純粋な形を追求したいと感じています。その可能性がどこかの作家や技術によって見つかるかもしれません。マクラーレンがカメラを使わずにフィルムに絵を描いたように、アニメーションにおける内的なイメージをどう映像としてビジュアル化するか。その過程で新しい技法や発想が生まれ、それがアニメーションの純粋な形として成り立つ可能性もあるのではないかと思います。
田中:「アニメーション」という言葉の中にはジャンルと芸術形式という似て非なる意味が共存しているということですね。言い換えれば、アニメーションにはある種の不純性がつきまとっている。山村さんやボリス・ラべは、アニメーションの不純さを前提としたうえで、それでもなお、創意工夫しながらアニメーションの純粋性を探求しているアーティストと言えるかもしれないですね。
山村:大変光栄な言葉で、ありがたいと思います。
田中:ところで今思い出したのですが、山村さんはかつて「Animations」というコレクティブを運営していましたが、その「Animations」の座談会で、細部は違うかもしれないのですが、「本当の意味でのクリエーションをCGで行うためにはプログラミングからやらないといけない」という旨の発言をされていたと記憶しています(編集者注:当該座談会は以下。「ライアン・ラーキンと『ライアン』 Animations座談会(前編)」(2007)。当トークイベントの内容をより深く理解するための補助線として参照されたい。座談会からすでに15年以上経過しているため、各参加者の考え方も当時とは変化していると推察されるが、生成AIの急速な拡大を受け、「アニメーションの本質」が再び問い直されている現在、ここで行われているCGに関する議論は、アニメーションとデジタル技術の関係を再考するうえで有益な示唆を与えてくれる)。今日の議論に通じる論点だと思います。
山村:そうですね。今後はプログラミングができないと新しい創作に向かえない時代になったかなと思います。僕がCGに手を出しづらいのは、自分でプログラミングができれば思い通りのものを作れると思うのですが、既存のアプリケーションを使って作ったものには満足できない部分があるからです。最近、初めてVRの制作をした際にCGを使いましたが、その不自由さを強く実感しました。
田中:このトークのテーマは「手法から考える」でしたが、むしろ、「文法を考える」という方が山村さんのアニメーション観に近いかもしれませんね。
山村:順番としては、そういうことだと思います。僕の場合、構造やナラティブの方法、文法への興味があって、そこへの実験性を求めています。具体的なものが決まった後に、アニメーションの手法やスタイルを探るという流れです。アニメーション制作や絵本制作においても、テキストやストーリーごとに道具や手法を変えるという方法を取ってきました。別に意図的にやっているわけではなくて、自然にそうなってしまう部分もありますが、順番としては手法や技法が後からついてくる感じですね。
田中:些細な点で恐縮ですが、「意図的にやっていない」というのは、無意識ということなのか、それとも意図することそれ自体が身体化したような感覚なのか、どちらなのでしょうか?
山村:その中間的な感じですね。僕はインスピレーション型の人間で、いきなりアイディアを思いついて何かを作りたくなる。モチベーションが急に上がって、それがどんな方法でどううまくいくのかもわからないまま創作が始まる。それが意識化されているのか無意識化されているのかで言うと、無意識化の方が近いと思います。直感型で、熟考型ではないんです。最近、脳科学の本をよく読んでいるのですが、直感というのは本質を見抜く力があるんですね。何万種類ある植物の中から、昔は科学的な方法がなくても「この草が病気に効く」といったことを勘で見つけてきて、最近科学が発展してようやくその薬の意味がわかるというようなことがあります。創作の中でも、そういった本質をつかむ直感力が非常に重要だと思います。その後に少しずつ考え始めて実行して、意識化することで必要なものがわかってきます。
田中:先程も少し話題に出ましたが、山村さんは最近ではVRにも取り組まれていますね。新しい技術は山村さんにインスピレーションを与え続けてくれますか?
山村:VRの作品を作った際、アニメーションの「見えていない部分」が見えたんですね。VRはフレームがなくて、360度が映像になります。フレームは元々カメラから来ていて、世界を切り取るものですが、実際にはフレームの外にも世界が広がっています。イマジネーションの世界にはフレームがないわけで、VRの方がより純粋なアニメーションに近いかもしれませんね。
また、モンタージュも使いづらいですね。360度の世界が急に変わってしまうので、映画的なモンタージュで文法を語る映像表現が難しくなります。アニメーションが当たり前のようにカット割りをしているのは、やっぱり映画的な文法に従っているからなんですね。改めてそのことに気づいたりもしました。
以前からモンタージュは比較的避けていて、ワンシーン・ワンカットで流れるような作品は『サティの「パラード」』からです。そして、今回『とても短い』では非常に短いワンショットで描き続けるという、映画的なカメラから抜け出したアニメーションの可能性に、VR作品の制作を経験して初めて気づき、それを言語化できるようになったという感じです。
田中:アニメーション映画祭は今後、新しい技術といかに向き合っていくべきだと思われますか?
山村:アニメーションフェスティバルと名乗っている限り、アニメーションから外れる作品をどう考えるかは、やはり問題になると思うんですね。映画祭だったら何でもありという部分もありますが、カテゴリーが限られたフェスティバルだからこそ、アニメーションとは何かを常に考え、アニメーションの可能性を見つけていけるのだと思います。実際に、HASでは「これはアニメーションではないな」と思うような、完全に実写的なAIによる作品もありました。そのような作品をどう考えるのかを常に問題提起し続けることが映画祭の役割だと思います。そして、その答えは観客の中にあると思います。
以下はそのトークの様子を書き起こしたものです。
田中:まずは、本作を観た率直な感想をお聞かせください。
山村: トークをするということで、事前にテレビモニターで一度プレビューさせていただきましたが、皆さんと一緒に大画面で観てみて、一人でプレビューしたときよりもさらに面白く感じました。睡魔に襲われた方もいらっしゃるかもしれませんが、これは意図的だと思います。催眠的な音楽と映像もあり、白黒ながらもサイケデリックで、20世紀のさまざまな芸術の引用が端々に見えて、まるで20世紀から未来を見たようなレトロフューチャーな印象を受けました。
各章にタイトルがついていますが、全体としては「ガラスのバベルの塔」というのが一つの大きなモチーフになっていて、そのバベルの塔が最後、崩壊するという形で終わっています。バベルの塔は人間のある種の英知のおごりで、天にも届く塔を作ろうとして神の怒りを買い、壊されるという旧約聖書の神話ですが、バベルそのものを我々の現代の英知に置き換えたような設定の映画かなというふうに捉えました。
田中:本作は、一般的には非物語的な作品と見なされうるように思われます。しかしながら、山村さんは本作に物語性を見出しているようですね。本作の物語について、山村さんなりの解釈をお聞かせください。
山村:初見は非常に抽象度が高い作品だと思いましたが、2度目の鑑賞では、章ごとのタイトルが物語性を持って構築されていることに気付きました。セリフはなく、登場する人物や鳥などの具象的な事物もやや半抽象的に表現されていますが、作品の中から読み取れる様々な引用やヒントを繋げていくことで、ちゃんと物語になることがわかりました。
僕が読み取った大まかなストーリーは、ガラスのバベルの塔に閉じ込められ、人間性を失っていった人類が塔によってハイパーコネクテッド、ネットなどを介しての複雑な繋がりを持つものの、最終的にそれがバラバラにされるというものでした。バベルの塔の伝説も同様に、塔の崩壊によって言語が世界中に散らばり、私たちのコミュニケーションが困難になったという神話です。要するに、ディスコミュニケーションが大きなストーリーの流れになっていると感じます。
ボリス・ラべの類いまれなグラフィックのセンスは言うまでもありませんが、本作はもともと、アルゼンチンの現代作曲家ルーカス・ファギンが作曲した音楽に基づいており、演奏会のバックで流す映像として作られたものだそうです。実際のライブコンサート版を観た方が楽しめる可能性は高いと思いますが、この長編版のほかに、コンパクトにまとめた短編版もあると聞いています。
ストーリーに関しては、各楽曲をルーカス・ファギンが作り、9つある章のタイトルも恐らく音楽のタイトルに由来しているのではないかと想像します。制作の成り立ちから考えると、ボリス・ラべが音楽のコンセプトに沿ったビジュアルイメージを作り上げていったのではないかと思います。
ボリス・ラべのWebサイトには、ルーカス・ファギンの音楽のインスピレーションとして、リゲティの室内楽団、ピンク・フロイドのアルバム『The Dark Side of The Moon』の収録曲「On the Run」、ヴィクトル・ヴァザルリの睡眠絵画が挙げられていて、この三つが全体のビジュアルにも大きな影響を与えていると考えられます。
田中:我々が山村さんにトークを依頼をした際、返ってきた言葉が「紹介文を読むよりもわかりやすい作品だった」というものでした。思うに本作を難解にしているのは、作品それ自体の構造というよりも、「ナラティブ/ノンナラティブ」という二項対立を前提に作品を鑑賞してしまう先入観が理由かもしれません。
山村:オタワ国際アニメーション映画祭でも「ナラティブ」と「ノンナラティブ」の2つにカテゴリー分けしていますが、これは物語が読み取りやすいものをナラティブ、実験的な作品をノンナラティブとして分けているだけで、僕は多くのノンナラティブ作品にも物語性があると思います。マックス・ハトラーの光学録音の発想に基づいた作品のように、20世紀の絶対映画の流れを汲んだ、もともと抽象的な音楽性を映画に取り入れたような作品を除けば、純粋なノンナラティブ作品は少ないのではないかと思います。
田中:そもそも長編アニメーションは劇映画、すなわちリニアな物語を前提とするものという先入観は、作り手/観客を問わず、未だ根強いように思われます。しかし、必ずしもリニアな物語は長編アニメーションの必要条件ではない。それは、山村さんの長編アニメーション『幾多の北』を観ても明らかです。
山村: 長年培われてきた映画の構造は、3部構成になっていたり、ターニングポイントがあったりと大体似たようなもので、アニメーション映画もそれに倣っているものが多いです。しかし、僕は長編アニメーションにおいて、構造の部分でこれまでのナラティブなパターンから抜け出す可能性があると考えています。
『Glass House』は9つの章に分かれていて、音楽でいう組曲のような形です。各章にタイトルがつけられ、それぞれが独立しているものと関連し合い、観客がその9つの章を繋ぎ合わせることで、1つの物語が見えてくるという構造です。一般的な映画の場合は、約15分の単位で1つの章がまとまり、それが3部構成で6パターンくらいの章が重なると長編映画になることがほとんどです。本作は40分なので長編と呼べるかどうかはわかりませんが、組曲的な9つの章から成り立つという点でその構造は非常に面白いと感じます。例えば、2フレーム単位で1つの絵があり、サブリミナルが永遠に続く2時間の映画なども面白いだろうと思います。
実は現在、1分の物語を90本繋げて90分の映画を作るという長編シナリオに取り組んでいます。この映画では、90本のショートフィルムは一見全く脈絡がないように感じられますが、それらを繋げることで何かが見えるかもしれない。このような構造における実験を試みたいと思っています。
田中:本作はAI生成イメージとハンドドローイングのハイブリッド作品です。その点も評価が分かれるポイントかと思います。山村さんは「ひろしまアニメーションシーズン(HAS)」のアーティスティックディレクターとして上映作品の選考も行なっていますが、そこでは生成AIを導入した作品も選ばれていましたね。生成AIに対する山村さんの考えを教えてください。
山村:この作品は恐らく、CGIが使われていたり、マイブリッジのソースが見える写真があったり、何かの映画をベースにしてAIで加工したショットも使われていたり、様々な技法をハイブリッドした作品だと思います。AIは異なる要素を混ぜて新たなイメージや動きを作り出すことに非常に長けており、自分自身の素材をそこに加えることで、オリジナリティを生み出すための道具になるのではないかと感じています。
HASの選考でも、明らかにAIを使っている作品を2本選びました。AIが使われている作品は現代のアニメーションにおける通過点として重要だと思い選考に入れましたが、審査員の方々はあまり評価していないように感じました。「こんなの2分で作れるよね」といった反応があり、手作業を尊重しすぎる傾向があるのを感じました。
ボリス・ラべの『Rhizome』という作品が文化庁メディア芸術祭に応募された際にも、私は審査員を務めていたのですが、その時の審査会では誰一人としてこの作品に触れなかったんです。恐らく、コンピュータで簡単に作られたものだろうという印象を持っていたのでしょう。しかし、全部手書きの素材で制作されていることを僕が説明すると評価が一変し、その作品が大賞を受賞することになりました。今後生成AIについて考えていくにあたっても、アニメーション業界にある「手作りがすごい」という価値観は払拭したいと個人的には思っています。
田中:どれだけ手を動かしたかだけでアニメーションを評価すべきでないとしたら、では作品を評価するにあたって、いったい何が問われるべきだと思われますか?
山村: これは本当に難しい問題ですが、アーティストがどのような視点で、どのような試みをしようとしているのか、そしてそこに新しい発見がある作品が面白いと思います。特に映画祭という場では、既存の技術を使ったウェルメイドな作品を高く評価するよりも、私はもう少し外れた次の可能性を感じさせる作品を見つけたいし、評価したい。自分の価値観では追いつけないような作品に面白さを感じます。
田中:本作における生成AIの使われ方を、どうご覧になりましたか?
山村:本作で一番重要なモチーフになっているガラスの質感、フィクションの中での光の屈折を表現するためにAIが活用されています。また、この映画自体が引用の嵐であり、素材自体も引用が多いため、それらをスムーズにつなげる道具としてAIは最適だったと思います。ボリス・ラべは、アニメーション的な考え方を持っています。アニメーションが中割りや異なるイメージを繋ぐ力を持つのと同様に、AIもメタモルフォーゼとして異なるイメージを滑らかに繋げていくことが得意です。世の中にあるAI映像もモーフィング、つまり形が変化していくものが多く、それはアニメーションの黎明期に似ていると感じています。
田中:生成AIを含め、アニメーションにおける手法というのは「個別言語」に近いように感じます。それぞれの手法には固有の文法(syntax)があり、その範囲内でアーティストは独自の文体を練り上げていく。そういうふうにアニメーションという芸術を図式化できるかもしれないと思う時があります。山村さんはどう思いますか?
山村: その質問に100%同意できない部分もありつつ、逆に田中さんの意図をお聞きしたいところです。syntaxという部分で言うと、アニメーションは絵を動かすために非常に多くの方法が試されてきました。アニメーション技法は、動きをビジュアル上で作るための創意工夫の中から生まれてきたものであり、僕にとってはそれぞれが一種の「方言」のようなものに感じられます。例えば、切り紙っぽい方言があったり、AIっぽい方言があったりというように。
田中:それは、山村さんのアニメーションへの向き合い方が異質だからな気もします。おそらくボリス・ラべもそうですね。どういうことかというと、山村さんもボリス・ラべも様々な手法に取り組まれていますが、一般的にアニメーションのアーティストというのは、ストップモーションやハンドドローイング、コラージュなど、それぞれにシグネチャーな手法を有しているように思います。したがって手法は単なる「方言」のレベルにとどまらず、むしろ、アーティストにとって決定的な枠組みなのではないかと。
山村: 確かに、僕もボリス・ラべも同じような考えを持っていると思いますが、作品ごとに目指すものがあって、それに適した手法や物語構造をゼロから考えがちなタイプなので、ピンとこないのかもしれませんね。アニメーションの場合は非常に職人的な要素が強く、切り紙なら切り紙を一生追求しなければ極めることはできませんし、ハンドドローイングも同様に一生追求していかないと一定のレベルには到達しないという考え方があります。そうなると、一人で多くの技法を開発していくのは難しく、さらに現代ではAIが登場したことで、プログラミングのスキルがなければオリジナルの作品にはたどり着けない。工学的な発想を持たなければ、現代におけるオリジナルな文体を作れない時代に差し掛かっているかなと思います。
田中:少しズレるかもしれませんが、ソフトウェアやツールも表現をある種、言語のように規定しているように感じる時があります。
山村:その点にはとても共感します。選考で何千本ものフィルムを見ていると、あるソフトウェアが流通すると、そのソフトウェアの癖に合わせた作品が山ほど作られるようになり、それを抜ける作品が少ない。観る側としては、「もう少し工夫できないかな」とげんなりしてしまうんですよね。もちろん良い面もあって、例えばDragonframeの普及で、以前は職人にしかできなかった立体作品が、かなり多くの人がスムーズに制作できるようになってストップモーションが活性化し、手描きに必要だった難しいブラシのテクニックがアプリケーションによって補強・補助されるようになりました。ただ、作品のテイストがどれも似通ってしまう部分があり、違う使い方ができないものかともどかしい感じがします。
田中:例えば、絵画における平面性や彫刻における量感を追求する純粋化のベクトルがありますよね? 同じように手法やソフトウェア、ツールの限界を追求することが、アニメーション芸術の純粋化と考えることができるかもしれません。
山村:アニメーション自体が持つ問題だと思うんですが、アートフォームとしてのアニメーションの考え方もあれば、映画の一ジャンルとして、技法としてのアニメーションという考え方もあります。当然多くのアニメーションはエンターテイメントや娯楽、実用のために作られることが多いですよね。アートフォームとしてアニメーションの純粋さを追求するようなアーティストは限られており、実際、多くのアニメーションは産業、または工芸としての追求の方向に傾いてしまいます。
田中さんがおっしゃっている、純粋な芸術性としてのアニメーションの話は理解できますし、僕自身もアニメーションの本質や、他のメディアにはないアニメーションの純粋な形を追求したいと感じています。その可能性がどこかの作家や技術によって見つかるかもしれません。マクラーレンがカメラを使わずにフィルムに絵を描いたように、アニメーションにおける内的なイメージをどう映像としてビジュアル化するか。その過程で新しい技法や発想が生まれ、それがアニメーションの純粋な形として成り立つ可能性もあるのではないかと思います。
田中:「アニメーション」という言葉の中にはジャンルと芸術形式という似て非なる意味が共存しているということですね。言い換えれば、アニメーションにはある種の不純性がつきまとっている。山村さんやボリス・ラべは、アニメーションの不純さを前提としたうえで、それでもなお、創意工夫しながらアニメーションの純粋性を探求しているアーティストと言えるかもしれないですね。
山村:大変光栄な言葉で、ありがたいと思います。
田中:ところで今思い出したのですが、山村さんはかつて「Animations」というコレクティブを運営していましたが、その「Animations」の座談会で、細部は違うかもしれないのですが、「本当の意味でのクリエーションをCGで行うためにはプログラミングからやらないといけない」という旨の発言をされていたと記憶しています(編集者注:当該座談会は以下。「ライアン・ラーキンと『ライアン』 Animations座談会(前編)」(2007)。当トークイベントの内容をより深く理解するための補助線として参照されたい。座談会からすでに15年以上経過しているため、各参加者の考え方も当時とは変化していると推察されるが、生成AIの急速な拡大を受け、「アニメーションの本質」が再び問い直されている現在、ここで行われているCGに関する議論は、アニメーションとデジタル技術の関係を再考するうえで有益な示唆を与えてくれる)。今日の議論に通じる論点だと思います。
山村:そうですね。今後はプログラミングができないと新しい創作に向かえない時代になったかなと思います。僕がCGに手を出しづらいのは、自分でプログラミングができれば思い通りのものを作れると思うのですが、既存のアプリケーションを使って作ったものには満足できない部分があるからです。最近、初めてVRの制作をした際にCGを使いましたが、その不自由さを強く実感しました。
田中:このトークのテーマは「手法から考える」でしたが、むしろ、「文法を考える」という方が山村さんのアニメーション観に近いかもしれませんね。
山村:順番としては、そういうことだと思います。僕の場合、構造やナラティブの方法、文法への興味があって、そこへの実験性を求めています。具体的なものが決まった後に、アニメーションの手法やスタイルを探るという流れです。アニメーション制作や絵本制作においても、テキストやストーリーごとに道具や手法を変えるという方法を取ってきました。別に意図的にやっているわけではなくて、自然にそうなってしまう部分もありますが、順番としては手法や技法が後からついてくる感じですね。
田中:些細な点で恐縮ですが、「意図的にやっていない」というのは、無意識ということなのか、それとも意図することそれ自体が身体化したような感覚なのか、どちらなのでしょうか?
山村:その中間的な感じですね。僕はインスピレーション型の人間で、いきなりアイディアを思いついて何かを作りたくなる。モチベーションが急に上がって、それがどんな方法でどううまくいくのかもわからないまま創作が始まる。それが意識化されているのか無意識化されているのかで言うと、無意識化の方が近いと思います。直感型で、熟考型ではないんです。最近、脳科学の本をよく読んでいるのですが、直感というのは本質を見抜く力があるんですね。何万種類ある植物の中から、昔は科学的な方法がなくても「この草が病気に効く」といったことを勘で見つけてきて、最近科学が発展してようやくその薬の意味がわかるというようなことがあります。創作の中でも、そういった本質をつかむ直感力が非常に重要だと思います。その後に少しずつ考え始めて実行して、意識化することで必要なものがわかってきます。
田中:先程も少し話題に出ましたが、山村さんは最近ではVRにも取り組まれていますね。新しい技術は山村さんにインスピレーションを与え続けてくれますか?
山村:VRの作品を作った際、アニメーションの「見えていない部分」が見えたんですね。VRはフレームがなくて、360度が映像になります。フレームは元々カメラから来ていて、世界を切り取るものですが、実際にはフレームの外にも世界が広がっています。イマジネーションの世界にはフレームがないわけで、VRの方がより純粋なアニメーションに近いかもしれませんね。
また、モンタージュも使いづらいですね。360度の世界が急に変わってしまうので、映画的なモンタージュで文法を語る映像表現が難しくなります。アニメーションが当たり前のようにカット割りをしているのは、やっぱり映画的な文法に従っているからなんですね。改めてそのことに気づいたりもしました。
以前からモンタージュは比較的避けていて、ワンシーン・ワンカットで流れるような作品は『サティの「パラード」』からです。そして、今回『とても短い』では非常に短いワンショットで描き続けるという、映画的なカメラから抜け出したアニメーションの可能性に、VR作品の制作を経験して初めて気づき、それを言語化できるようになったという感じです。
田中:アニメーション映画祭は今後、新しい技術といかに向き合っていくべきだと思われますか?
山村:アニメーションフェスティバルと名乗っている限り、アニメーションから外れる作品をどう考えるかは、やはり問題になると思うんですね。映画祭だったら何でもありという部分もありますが、カテゴリーが限られたフェスティバルだからこそ、アニメーションとは何かを常に考え、アニメーションの可能性を見つけていけるのだと思います。実際に、HASでは「これはアニメーションではないな」と思うような、完全に実写的なAIによる作品もありました。そのような作品をどう考えるのかを常に問題提起し続けることが映画祭の役割だと思います。そして、その答えは観客の中にあると思います。